朋之会
10月1日の朋之会で源氏供養を勤めます。
今日は申し合わせでした。蒸し暑かったです。
この曲は自分なりにあたためてきた曲で、どこと言ってつかみどころのない曲ですが、そこがほかの曲にはない魅力です。
紫式部がシテで、
源氏物語を作ったことが罪であるという考えが根本にあり、安居院の法院の功力により成仏できたことを喜び、
石山寺を舞台にして、紫式部が回向の舞を舞います。
霞のかかったなかで、お線香の香りがする舞台になればと思います。匂いのする能はたくさんはありません。
忙しかった9月があっという間に終わります。秋晴れのお天気が待ち遠しいです。
全くの素人の私の書き込みにご返事下さいましてありがとうございました。
私の書き込みの最後の3行を修正して、再度アップさせて下さい。
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そして、無駄な殺生に歓喜する鵜飼、我が子を思う盲目の老人を経て、
先生の「こころ」に触れた気がしました。
もしも、お能に心がないのであれば、先生のような面の表情を出せないように感じました。
当日の会のお話で解説頂いた、「お能の感受性は観る者の経験からの多様性である」という立場からすると、私自身が、ただ一生懸命に演じる心を感じるだけでなく、先生の求めておられる「こころ」を感じたいです。
正直に申しあげて、この源氏供養、先生の動作に魅了されてしまい、面の表情まで追うことが出来ませんでした。
もしも出来ることであれば、10年後に先生の源氏供養を再度拝見できれば本望です。
私自身が成長することで、見えなかったものを観ることが出来ることを期待したいです。
身に余るお言葉、恐縮に存じます。
是非10年後勤めさせていただきたいと思います。もっともっと稽古して臨みたいと思います。宜しくお願い申し上げます。
来年の檀の会も何卒宜しくお願い申し上げます。松木千俊
昨日は、素晴らしいお能、ありがとうございました。
匂いのする能と言うことでしたが、私は「優しい風」を感じました。
特に紫式部が舞い始める最初に、両手を大きく開いた時の動きが新鮮でした。
何故かというと、「優しく包まれる」という行為の逆の「優しく開かれる」という動きを知ったからです。
私がお能を初めて見たのが、昨年の「静と動」でした。
この時の感動は「無表情のはずの面が、何て表情が豊かなのだろう」でした。
そして、無駄な殺生に歓喜する鵜飼、我が子を思う盲目の老人を経て、「こころ」が無いと面の表情を出せないように理解できました。
ただ一生懸命に演じる心を感じるだけでなく、先生の求めておられる「こころ」を感じたいです。
こちらこそありがとうございました。
面は演者によって、まったく違う表情になります。これからも稽古をつみ、探求を忘れず精進してまいりたいと存じます。宜しくお願い申し上げます。